エッセイ・フェニーチェの話
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No.03 水からのアプローチ
文・写真/石川晴行
 フェニーチェ劇場のシンボルカラーは、とても鮮やかな "acqua"=「水色」です。入り口に飾ってあるエムブレムにも使われていたし、パンフレットやチケットも、この色で統一されていましたが、もとは劇場の内装の色、天使が舞っている天井や、桟敷のパネルの色から取られたものだと思います。落ち着いて細かい部分をよく見ると、描かれた絵もそれぞれに可愛らしいし、縁取りの金の装飾も華やかで、そういう要素が劇場の優美さを引き立てているには違いないのですが、全体の印象としては水色のイメージがとても強くて、フェニーチェというと、この色を思い出します。水底に沈んでいるような感じでもあるし、古い外国の絵本で、木陰に佇む羊飼いの娘の後ろに広がる空の色を眺めているような、牧歌的な気分もあり、いずれにせよ、どことなく御伽噺の世界を思わせる。もしかすると、鯛や鮃が舞い踊る竜宮城というのは、こんな感じなのかもしれません。

 以上は色の話ですが、実際の "acqua"=「水」の要素も、水の都ヴェネチアの劇場だから当然と言えば当然ながら、フェニーチェには欠かせません。もちろん劇場は運河に面していて、元々は水辺からのアプローチが正面玄関であったそうです。自家用のゴンドラを、お抱えのゴンドリエーレに漕がせた貴族などが、ここに乗り付けたのでしょう。近年は専ら舞台装置の搬入に使われていたようですが、火災の前に見た時には、ゴンドラを繋ぐ杭が残っていて、往時の賑わいを彷彿とさせました。念の入ったことに、この杭もちゃんとシンボルカラーの水色に塗られています。

 劇場で起こる諸々に対する期待で胸ふくらむ往きの舟路も楽しそうですが、幕が降りた後に、余韻を味わいながら舟に揺られて家路につくことが出来るというのは、何と贅沢なことでしょう!コンサート会場から最寄駅に辿り着くまでだけでも、妙に明るく、騒々しく、時にはいかがわしい場所を通り抜けなければならない現代の東京の環境からすると、羨ましさの極みです。もっとも江戸から明治の中葉までは東京でも水運が盛んで、舟を仕立てて芝居見物に行ったという話が、漱石や荷風の随筆の中にも回想されています。その頃はきっと、東京ももう少し余裕のある、住みやすい街だったのでしょう。

 ヴェネチアに話を戻しますが、自家用の舟など持てる筈もない現代の旅行者の我々でも、大運河に出てヴァポレット(水上バス)に乗れば、潮風に吹かれつつ水に揺られてゆく感じは充分に味わえますし、そこらへんのカッレ(路地)に紛れ込んでしまえば、車の通らない街ですから、今聴いたばかりのアリアの一節を口ずさみつつ、そぞろ歩きを楽しむというようなことはお手のもの。カッレからカンポに出ると、突然視野が開けて、その片隅にある一軒のカフェから灯がこぼれているといった情景にも出会う。夜のヴェネチアを歩くと、身体が街の呼吸に馴染んで、全身の細胞の一つ一つが喜んでいる感じを味わえます。

※この記事は2001年に掲載したものです。
石川晴行プロフィール
 
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