ヴェネチアのフェニ−チェ劇場の隣に、劇場と同じ名前のホテルがあります。正式には「ホテル・フェニ−チェ・エ・デザルティステ」、フェニ−チェと芸術家達のホテルという意味ですが、その名の通り、様々な芸術家がヴェネチアでの定宿としています。劇場に出演する演奏家はもちろんですが、古くは作曲家のプッチーニやストラヴィンスキー、映画監督のヴィスコンティなんかも、好んでここに宿泊していたそうです。
私が初めてここに投宿したのは1995年のこと。もちろんフェニ−チェ劇場に行くにも都合が良いし、うまく行けば出演者にも出会えるだろうし、ホテルのレトロな雰囲気も味わいがあるだろうと思ってのことですが、3階(イタリア式に言うと2階)の部屋に入って驚きました。どこからか楽器の音が漏れ聴こえるのです。窓を開けてみると、人がようやくすれ違える位の路地を隔てて、向かい側はもう劇場の建物なのでした。
それから数日間の滞在中、楽器の音だしで目覚めたり、ベッドでごろごろしながら歌手や合唱団の発声練習を聞いて過ごしたりました。今日の演目の断片とか、聞き知った曲の一節とかが聞こえると、思わずニヤリとしてしまう。音楽好き、特にオペラ好きには、たまらなく楽しい環境です。
昔ロッシーニがこの劇場でオペラを上演する時、リハーサル中に周辺の水路を通行止にしたという話があります。ゴンドリエーレ(ゴンドラ漕ぎの男達)が、耳にした初演前のアリアの旋律を聞き覚えて、他所で歌ってしまうのを防ぐためだったそうですが、水路を封鎖されても、このホテルに泊まっていれば、そういう産業スパイ(?)めいた真似は簡単に出来てしまいそうです。でも、ロッシーニの頃はこのホテルがまだ開業していなかったのか、それともそんな世知辛いことを考える人もいない長閑な時代だったのか、アリアの盗難を恐れてホテルを借り切ったという話は伝わっていません。
さて、1996年にフェニ−チェ劇場が火災で焼失して、世界中のファンを嘆かせたのは記憶に新しいところ。私自身も焼け跡の痛ましい姿を見るのが辛いので、この界隈には御無沙汰していましたが、そろそろ再建工事も進んだかと思い、今年は久しぶりでホテル・フェニーチェに泊まってみました。今はもちろん、宿の窓を開けても劇場からの音楽を聴くことは出来ません。でも、路地を通る人の足音や話し声に混じって、ゴンドリエーレの歌声は、相変わらず付近の水路を通るゴンドラから聴こえて来ます。
朝食をとるために宿の中庭に出ると、ヴェネチア独特の青く晴れ上がった空を背景に、工事用のクレーンが聳え立っているのが見えました。周囲の建物に視野が遮られるので、劇場の建物自体をここから見ることは出来ませんが、ちょっと足をのばしてサン・マルコの鐘楼に登ると、遠望することができます。工事用の囲いの布で包まれて佇む劇場の姿は、火傷をした人が全身に包帯を巻いたところを思わせます。
※この記事は2001年に掲載したものです。 |