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イタリア地図を広げる。ブーツだったら足を突っ込みかけたあたりに、トスカーナ州の州都・フィレンツェがある。そこから南に約60km下ったところにあるのが、シエナの街だ。
フィレンツェからバスやクルマで目指すと、突然シエナの街が眼前に開ける。丘の上に寄り沿うように建てられた赤茶色の街。ガイジンも、よそから来たイタリア人も、その異様な光景に「オーッ」と感嘆の声を上げる。
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今でこそシエナは県全体の人口を合わせても25万人規模の、おだやかなイタリア地方都市だ。
しかし侮っちゃいけない。13世紀後半から当時のシエナ共和国は、あの大フィレンツェを支配していたのだ。
ミラノの人をミラネーゼ、ボローニャの人をボロネーゼというように、シエナの人を“セネーゼ”という。栄光のシエナ共和国の末裔であるセネーゼ。だから、今や小さな街でもみんな誇り高き人たちだ。
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さて、16世紀後半になると、今度は逆にメディチ家率いるフィレンツェの軍門に下ってしまう。
だがシエナの人々は必死で抵抗した。その粘り強い抵抗ぶりは、フィレンツェがシエナ人を監視するための城塞を作らざるを得なかったほどだった。その城塞は、“メディチの城塞”として今も残っている。
当時のシエナ人のフィレンツェに対する敵対心は、今も見ることができる。たとえば、いにしえの商取引所“商人のロッジア”に据えつけられた聖人像のすべては、シエナを護るためフィレンツェの方角を向いているのだ。
今でもセネーゼは、「中世の流行ったペストから今日の雨雲まで、悪いモノはみんなフィレンツェからやってくるゼ」と、つぶやいたりする。
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シエナがもっともハイだった時期は13〜14世紀。つまり中世だ。
それはフィレンツェを支配下に置いていた時期とオーバーラップするが、同時に北ヨーロッパとローマを結ぶ主要街道上にあったことも、ラッキーな要因だった。
人の往来が盛んになれば次第に両替のシゴトが増えてくる。シエナの人々は街道に机を出して両替所を開き始め、それはやがて銀行業へと発展していった。
ローマへの巡礼ルート上にあったことも、シエナの繁栄を確固たるものにした。中世の人々はシエナでゆっくり体を休めてから、まだ230km先にあるローマを目指したのだ。人が滞在すればおカネも落ちる。
さらに、フランスに幽閉されていた法王をローマに連れ戻した功労者・聖カテリーナがシエナ出身だったことも、巡礼者の数を増加させた。
ローマを前にした最後の主要巡礼地にふさわしい、ゴージャスなゴシック様式の大聖堂が建てられ、休養・療養のための病院も作られた。ちなみにその建物は、つい数年前までホントに病院として使われていたから驚きだ。
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今日シエナの名前が脚光を浴びるときといえば、中世にルーツを遡る競馬“パリオ”のシーズンである。毎年7月2日と8月16日に街の中心・カンポ広場で行なわれるレースは、街を17分する中世以来の自治組織“コントラーダ”対抗。コントラーダは今もセネーゼの誇りであり、結束の象徴だ。
毎回10頭の裸馬に騎手がまたがり、戦いに挑む。騎手が落馬しても馬がゴールすれば優勝だ。レースはたった3周で終わる。しかし広場にすし詰め状態になったセネーゼたちは、その1分半に持てる限りの声援を送る。
かくもシエナは昔が今に生きている、時間旅行しているかのような街だ。
さて次回は、今回のシエナ美術展の作品が収蔵されているモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行の謎に迫る。なんとアメリカ大陸発見以前、日本なら室町時代から脈々と営まれている、その銀行の正体とは?
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※この記事は2001年に行われた「シエナ美術展」開催時に寄稿頂きました。 |
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