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イタリア映画は、1905年『ローマ占領』に始まる。1895年12月28日、リュミエール兄弟がパリのグラン・カフェで「シネマトグラフ」を公開して以来、映画が人々の関心を集めたのはイタリアも同じで、5年後にはほぼすべての都市に映画館ができていた。この間、記録映画や一幕芝居、喜劇などの映画作品が多数製作されていたが、劇映画としては『ローマ占領』が最初の作品となる。
これはイタリア統一軍のローマ進撃(1870)に題材をとったフィクションだが、イタリアが最初の作品から歴史物フィクションというジャンルを選び、そしてその後もメインジャンルとして扱っていったことは注目に値する。その要因としては文化遺産が身近にあること、政情の不安定さなど様々なものが考えられるだろう。 |
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サイレント時代の最高傑作といわれる『カビリア』(1914)も同じく、ローマとカルタゴの地中海覇権をめぐる戦いを描いた史劇だった。当時としては多大な予算と期間をかけたこの映画は、特許を取った移動撮影や、人工照明など技術面でも革新的だった。映画的空間・時間を圧倒的に拡大したことで、世界映画史の里程標となる。D.W.グリフィスはこの作品を繰り返し見、それがのちの『イントレランス』(1917)に大きな影響を与えたといわれている。
また、飛行機でチラシを散布したり、当代随一の人気作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオの名を製作者に連ねるなど、宣伝の面でも新しい趣向が見られる。1911年のトリノ・エクスポでルイジ・マッジ監督『金婚式』が芸術部門1位を獲得した頃から、アメリカやフランスなどでイタリア映画は大人気を博し、黄金時代が続いていたが、まさにこの『カビリア』で頂点を成すわけである。 |
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同じ頃、訪れたのはディーヴァ(女神)の時代である。フィルムが長尺化するに伴い、人物をクロースアップした現代劇も観客の人気を集めるようになっていった。1913年の『されどわが愛は死なず』で登場したリダ・ボレッリは、物憂げで魅惑的なファム・ファタルを演じ、「スター」とほぼ同意義となる「ディーヴァ」の誕生を高らかに告げたのだった。映画誕生時は、俳優にとって映画出演は恥ずべきこととされていたが、この映画では宣伝ポスターにもリダ・ボレッリの名が大きく扱われ、イタリア式スター・システム(ディヴィスモ)の始まりを思わせる。
そして、ディーヴァという言葉を定着させたのが、フランチェスカ・ベルティーニである。ナポリの下町を描き、ネオレアリズモの先駆といわれる『アッスンタ・スピーナ』(1915)で主演した彼女は、「スターの中のスター」として君臨した。その他、『王家の虎』(1916)に主演したピーナ・メニケッリのファム・ファタルぶりもダンヌンツィオ風の耽美的な世界の中で魅力を放っている。
ファム・ファタルという範疇から外れたディーヴァといえるのが、エレオノーラ・ドゥーゼである。当時舞台女優として極めて高い名声を誇っていた彼女が出演した唯一の映画が『灰』(1916)で、ここで彼女は、映画の持つ独自の表現力を意識的に追求し、芸術的試みを実践している。
このディーヴァの時代は長くは続かなかったが、サイレント時代、イメージが圧倒的に優勢であった頃に放たれた人間の魅力の強さは、のちのアンナ・マニャーニやクラウディア・カルディナーレといったスターの出現につながるものだろう。 |
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| 第一次大戦中、栄華を誇ったイタリア映画だが、終結時頃から、次第に斜陽へと傾いていった。他国の映画が内実ともに発展したことによる輸出の減少、国内ではファシストの台頭による政情不安などもあり、1920年を超えると、製作本数も激減、映画産業も終焉を迎えたかと思われる有様だった。しかしファシスト政権下、映画批評が盛んになり、またチネチッタの建設など、新たな黄金期を迎える胎動は着実に存在していた。そして、それがトーキーを経て、ネオレアリズモで爆発的に花開くことになるのである。 |
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※参考文献
『イタリア映画大回顧』カタログ 朝日新聞社、『世界の映画作家32』キネマ旬報社、『イタリア映画・百年の遺産』矢島翠、『イタリア映画史』飯島正
白水社 |
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