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| 原作者:カルロ・コッローディ 本名カルロ・ロレンツィーニ。1826年、リチャード・ジノリ公爵家の料理人の長男として、フィレンツェに生まれる。 20代の頃、国家独立、国家統一の理想を掲げる国家再興運動(リソルジメント )が続く熱っぽい雰囲気の中、青春時代を迎えた。若い頃から政治に関心が強く、愛国主義者的情熱から自ら志願して、イタリア独立戦争に2度(48年と59年に)参加。 1861年、ようやく達成された新生イタリアには、大いに落胆させられた。特に教育に関して、子供の没個性を促す新国家が打ち出した支配者層からの啓蒙主義的教化政策に、真っ向から批判を述べた。この頃から、母親の生まれ故郷の北イタリアの村の名前を取ったコッローディの名で、評論を執筆し始め、政治新聞を創刊した。 72年、生活費のために始めたフランスの「教訓童話」と呼ばれるシャルル・ペローのおとぎ話(赤ずきん、長靴をはいたネコ、等)の翻訳をはじめ、思わぬ才能を発揮、それ以来児童文学に興味を持つ。子供向けの昔話に“教訓”を加味するという手法に感銘を受け、彼の矛先は、政治新聞を利用しての訴えではなく、明日を築く子供たちに向かったのだ。 |
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| イタリアの未来を担う息子たちに期待を込めて、そして彼らと一緒に生み出したもの 81年6月、55歳、著作活動と平行して勤務していたフィレンツェ県庁一等書記官を退職し年金生活に入る。ジノリ公爵の援助により、フィレンツェに今もある磁器店「リチャード・ジノリ」の2階に住み執筆活動に没頭する。 その年、子供へのまなざしの深まる中、ローマの「子ども新聞」(7月7日発刊号)で、「ピノッキオの冒険」の前身となる「ある操り人形のお話」の連載を開始した。 「ある操り人形のお話」は第15章のピノッキオの死、で一旦連載を終了した。しかし、人気のあったこの物語が“木に首を吊られ死ぬピノッキオの最期”を小さな読者は許さなかった。 新聞の編集者は、殺到する抗議の手紙をもって、コッローディを説き伏せ、次の文面を掲載した。 「コッローディおじさんが、私にこんな手紙をくれました。おじさんの“友だち”はまだ生きていて、あの子については、まだどっさりお話することがあるんですって・・・。それで早速、皆さんにお知らせしたのです。さあ、少しでも早く、“あるあやつり人形の物語”の第二部を“ピノッキオの冒険”という題ではじめていただきましょう! 」 かくして子供たちの熱烈な要望によって続行が決定、翌82年2月タイトルを変え連載が再開し、第29章まで続いた。 それでももっと続けてくれという要望が大きかったので、さらに第30章から36章までを載せ、本当に終わったのは83年1月25日。 こうしてみると、大勢の小さな読者の参加があってはじめてこの物語は完結した。その後、同年翌月、各章の冒頭にその章を紹介する細かな“はじまり文”なる要約文を付け、再編集し、完全な形となって出版された。また友人であったエンリコ・マザンティの挿絵が添えられた。 この83年2月が、子供たちとコッローディが作り上げたこの物語が“完成”した年とされ、誕生年にされた。 「ピノッキオ」の他にシリーズものの「ジャンネッティーノ」や「ばら色の小ざるピピ」等の児童文学を書いた。 生涯結婚せず、1890年没。亡くなった時にはピノッキオの続編を考えていたという。 |
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